本とわたしを離さないで

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2018.07.21

本はゆっくりだからいいと思う。

先日閉店間際にお客様が入ってきて、店を一周すると唐突に質問された。

足取りで本を買いに来たわけではないことがわかっていた。

「本を早く読むにはどうすればいいでしょうか?一冊を読むのに一ヶ月かかることもあって。一週間で何冊も読んでしまう人がいると聞いたのですが、どうすればいいでしょうか?」

そんな質問をされたことは初めてだったのと彼女が何か急いでいる風だったので面食らったのだけれど、

「早く読もうと思ったことがないのでわからないです。僕も一ヶ月かかることはありますよ。ゆっくりでいいんじゃないでしょうか」と冷静に答えた。

彼女は少し意外な表情をして、「そうですか。ゆっくりでいいですか。わかりました。」と言って足早に去っていった。

 

この出来事はさて置き、本はゆっくりだからいいと思う。

飛行機ではなく、船のようにゆっくりと進んで行く。

そこから見える風景は何ものにも代えがたい。

結末には容易にたどり着かず、重く、かさばり、こすっても何も出てこない。

時間をかけることを半ば強制してくる。

いかに早く目的のものに辿り着くことが優先される世界でこんなに時代に逆行しているメディアは他にない。

 

ゆっくりと、たった一枚の紙をめくるときに感じるその圧倒的な重さ、それを感じられている時、僕は今を生きいていると思う。

 

 

 

 

 

 

2018.07.12

「つち式」とそれぞれの役割

創刊から間もなく一ヶ月経つがこの本を一言で紹介するのは難しい。

けれど、この本を読むべき人がどこかにいる様に感じ(もちろんそれは一人ではない)、この本自身もその人の元に収まりたい、と訴えているような不思議な力をこの本は放っている。

どのような本か、と問われればやはり次の文を引用したい。

 

『二〇一七年、わたしは米、大豆、鶏卵を自給した。

このことで、わたしの中に何かが決定的に生じた。いわばこれはある種の自信である。社会的な、ではなく生物的な自信が。一生物としての充足感といいかえてもいい。わたしははじめて人間になれた気がした。何者かではなく、ひとかどのホモ・サピエンスに。』

 

著者の東さんは1991年生まれの大阪出身で、2015年に奈良県宇陀市に移住し、上記のように稲作や養鶏をして暮らしている。

東さんは高校を中退し、その後の留学も途中で帰国し、大学も卒業を迎える前に辞めている。

大学を辞める頃には田んぼや畑をやることをぼんやり考えていて、奈良の田舎に行っては移住先を探していた。

そして宇陀市のある土地とある翁に出会い、野良仕事の手ほどきを受け、自給を始めるに至る。

本書では稲作、養鶏、生物との交わり、その一年間の出来事が日記のように記されている。

学校がつまらない人は田んぼをやろう、田舎で暮らそう、自然最高、やりがいを探そう、なんてことは微塵も書かれていない。

淡々と自然や生物(マムシや土竜、田んぼの昆虫、そして鶏)との関わりを綴っている。(その関わりを読むだけでも十分に面白い。)

ただ一つ、上記に垣間見れるように、「俺は今生きている、ここで生きていく」という「宣言」を静かに叩きつけている。

その宣言はこの小さな本の読者の心を掴むには恐らく十分すぎるほど力強いものだ。

 

「自分で稲や鶏を育て食べることはやりがい、生きがいがあります。僕にとって他の何よりも自給することにそれを感じます。自身の生存に関わることなので、いわゆる仕事をして感じるやりがい、生きがいとは異なる気もしますが。」

僕のやりがいを感じるか、という簡潔な質問に東さんはこう答えてくれた。

そしてもう一つ、僕は、彼は彼の「役割」を全うしているように感じられた。

彼は自分の役割を見つけ、そこに未だかつてない喜びを感じている。

翁の仕事を引き継いだ役割、米や鶏や野菜、この土地自体に対して自分の仕事をする役割がある、と仰った。

自分のやるべきことを喜びを持って向き合っている人を僕は尊敬する。

そういう人が書いた本だから、出来るだけ近くにも遠くにも届けたい。

 

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2018.06.10

4周年

画家が何もない真っ白いキャンバスに色を、重ねていく。

最初のイメージはあるが、色が動き出すと、彼は絵がどこへ向かっているのかは分からない。

終わりの見えない孤独な旅を楽しもうと彼は絵と対話を始める。

 

小説家が何もない真っ白い原稿用紙に言葉を、連ねていく。

最初のイメージはあるが、次第に人や風景が動き出すと、彼はもうこの物語がどこへ向かっているのかは分からない。

その物語が心のある一点に到達するまで彼は言葉たちとたった一人で向き合わなくてはならない。

 

4年前にマンションの一室でお店を始めた時も、2年前に移転をして今の場所に移ったときも、部屋は真っ白で何もなかった。

家族や友人に手伝ってもらって本棚を運び込み、一人で黙々と本を並べた。

確か、今日のように蒸し暑い日々で、紫陽花が街の隙間を埋めるように咲いていた。

やがて部屋は色づいて、言葉が溢れた。

そこへ人がポツポツと入るようになって部屋が店になり、心臓のようにゆっくりと動き始めた。

一冊の文庫本が売れるだけで嬉しかった。

それから本を置かせて欲しいという人が現れたり、絵を飾らせて欲しいと言われたり、お店の写真を撮りたいという人が現れた。

一人で店を開け、人々がやって来て、帰っていき、一人で店を閉める。

孤独だと言えば孤独だし、けれど楽しいと言えば凄く楽しい。

経済的な心配はいつも背中につきまとっている。一年後にどうなっているのかさえ正直分からない。けれどそんな事はどうでもいい。

お店に溢れる言葉や、人々がやってくることで生まれる音に、飲み込まれてしまいたい。

塗り重ねられていく絵のように、終わりのない物語のように、そして毎日ページをめくるようにこの店を続けていきたい。

どこへ向かっているのかは分からない。

目標は、と問われれば続けていくこと以外にない。

心臓が止まるまで。

 

 

 

 

 

2018.05.06

どうでもよくないこと

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SNSを見ていると楽しいな、色んな人がいるんだな、と思う日もあれば、

もうほとんどここに書かれていることや写真なんてどうでもいいな、思う日もある。

じゃあどうでもよくないこと、って何だろう。

愛と恋、生や死、家族や友人、暴力と差別、夢と記憶、

ほとんどの本にはそういったどうでもよくないことが書かれている。あるいは描かれているし、載せられている。

どうでもよくないことに向き合うのは力がいるし勇気もいる。

今の時代に照らし合わせれば人々は何と言ってもスマホに夢中なので時間がいるとも言える。

本を読むことで時には感動して涙を流したり、胸が苦しくなって眠れなくなったりする。

あるいはその本に向き合うことで明日も頑張ってみようと思うかも知れない。

だから、大事なことはきっとそこにある。

そう信じないと本屋は出来ない。

そんな本を手渡して行きたい。

それは、大げさなことじゃないと思う。

 

2018.05.06

100年後もここで会いましょう。-「目覚めたらふたりは世界の果てにいる」を終えて

土門蘭・寺田マユミ 絵と短歌展『目覚めたらふたりは世界の果てにいる』が無事終了した。

この展示は「100年後あなたもわたしもいない日に」という本を土台にしたもので、この本をもっと多くの人に届けたいと思い企画したものだ。

この本については以前にここで書かせてもらったのでここでは詳しく記さない。

ただ、100年後も世界は美しくありますように、と願う祈りのような本だと書いた。

祈るとはどういうことだろう。

平和を祈る、無事を祈る、再会を祈る。

そこには人びとの希望が込められている。

希望がこの本には綴じ込められている。

だから、この本を開くということは希望を目の当たりにすることになる。

希望は目に見えないけれど、読者の心に留まるだろう。

その心は人を動かすかも知れない。いや、動かしたと思う。

土門さんの短歌と寺田さんの絵に心を動かされたたくさんの人がご来店下さった。

お二人が登壇したトークイベントにもたくさんの方が足を運んで下さった。

この小さな本を両手に包み、また明日から頑張ろうと思います、そんな声を聞いたのは一つや二つではなかった。

 

ある日出勤したら芳名帳に「100年後もここで会いましょう」と記してあった。

本に込められた祈りがまた言葉となってここに返ってきた!と思い僕は感動した。

当然僕は100年後の、今、ここに立っている場所を想像せずにいられなかった。

この小さな、不安定な場所。

この約束を叶えられるだろうか。

例え、肉体がそこにはなくとも、その思いと約束があったことはまずここに記して置かなければいけないと思った。

短歌にあるように、100年後も同じ朝陽が昇るだろう。

その日に想いを馳せることは全く非現実的なことはではなくて、むしろその想いが今を生きることに光を当ててくれると思う。

 

土門さん、寺田さん、柳下さん、ありがとうございました。