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2023.09.23
2023.9.24
約8年前、週末にひっそり営業していたワンルームから今の路面(というかマンションの1F)に店を移した。
元々、ワンルームの店は仮住まいのつもりだった。
その頃比較的毎週のように来てくれていたお客さんがいて、彼女に店を移すことを告げると、「隠れ家みたいな雰囲気がよかったに」とその場で倒れるのではないかと思うくらい非常にショックを受けていた。
それ以来、彼女の姿を見ていない。
時々彼女の落ち込んだ姿を思い出す。何故だろう。
2023.9.22
音楽を聴かない日というのがない。
リズムを刻むように、メロディーを奏でるように、ノイズを蒔くように、サウンドを響かせるように商売をしたい。
それが出来たらどんなに素敵だろうと夢想することがある。
2023.9.22
グラスの縁を歩いているような感覚。
どうすればここから別の場所へ移ることが出来るのか。
2023.9.15
平日。
相方より少し遅れて六時半ごろに起きる。トイレに行き、顔を洗う。
相方が味噌汁を作る間に俺は昨夜の乾いた食器を片付ける。
それから果物を切って皿に盛り、ヨーグルトをかける。担当が逆の場合もある。
そうしている内に長女が起きてくる。長女は朝が得意ではない。着替えをしたり、髪の毛を整えている間に朝食が出来る。長女と俺が先に食べ始める。そこで次女が目を覚ます。長女は食べ終わると行ってきます、とすぐに学校へ行く。玄関で見送る。相方はエレベーターに乗るまで毎朝見送る。(玄関の前がエレベーターだ)
俺は朝食が終わると風呂を洗って、着替えて、家を出る。
バスに乗って千里中央へ向かい、用事があれば銀行へ行き、何もなければそのまま地下鉄に乗る。
この移動時間は貴重な読書時間だ。
緑地公園で降りて、弁当を作っていない日はスーパーかコンビニに寄る。
店に着き、シャターを上げ、掃除をし、棚を整え、店を開ける。
開けました、とSNSで告知をする。(意味があるのかは分からない)
それからコーヒーを淹れ、一息吐きながらメールを読む。
午前中は通販の発送、入荷があれば店に出す。時々お客さんがやって来る。
裏でこっそり昼飯を食べ、仕事に戻る。少し眠い日もある。
本を読んで通販にあげたり、古本の値段を付けたり、出したり、音楽を聴いたり、接客したりして営業が終わる。
朝来た道を帰る。急いでいる時はモノレールに乗ったり、長女の習い事の迎えに行ったりする。
帰宅すると大抵20時過ぎで、家族の夕飯は終盤になっている。お帰り、と皆元気に言ってくれる。
俺は風呂に入って、相方が作ってくれたご飯を食べる。彼女は次女を寝かしつける。長女はベッドでゲームか漫画かYouTube。
洗濯物を干して、子どもたちが寝ていたら時々二人でビールかワイン。あるいは本を読んで眠る。
俺はこの日常を愛している。
そしてこの日常が永遠に続かないことを知っている。娘たちはそれを知らないかも知れない。
仕事はこの日常の中にある。切り離すことは出来ない。
仕事の手を抜けば、この日常は夢のように崩れていくだろう。
俺はそれを恐れている。
2023.9.15
よく漫画とかである「今に見てろ!」「いつか見返してやる!」みたいな気持ちは俺にもある。
表には出さないけれど。
一人で商売をするっていうのは全部ではないが意外とそういう気持ちが発端になっていたりするものだと思う。また、そういう気持ちがないとやっていけないのではないか。
誰にか?
うちの店には見向きもしない大手出版社、売れっ子の作家、一瞥して素通りしていく客、友人、色々だ。
でも一番は、結局のところ、俺の場合は父親かも知れない。
2023.9.12
「酒のさかな / 高橋みどり」
「帰ってから、お腹が空いてもいいようにと思ったのだ。 / 高山なおみ」
今日買い取った本。
(人生の)最後まで手元に置いておきたいのはこういう本なのかなとふと思う。
食のエッセイは最も売れるジャンルの一つ。ここに平松洋子の本を加えれば無敵だ。
愛だ恋だのはもうほとんどどうでもいいし、社会問題に死ぬまで関心を持っていられるかも疑わしい。
結局、人間食べることが全て、のような気がする。
今は家族でご飯を食べる時間が一番楽しい。
2023.9.12
死者の音楽を聴き、死者の書を読む。
彼らだけが知っていることがある。
2023.9.6
お店にいるお客さんの3人に1人が本を手に持っている時の安心感。
2023.9.5
しんどいし、なんやかんやあるけど頑張ろう、からもう一歩踏み込まなくてはいけない。
2023.8.27
違和感は大事にしたい。
けれど、
たとえ勘違いだったとしても人に対する違和感はずっと残ってしまう。
2023.8.25
もう少しビジネスライクにやった方がいいのではないかと逡巡することがある。
正解なんてないのだから。
けれどビジネスライクにやる、というのがどういうことなのか分からない。
何かもっと出来ることがあるのではないかと考える。
例えば毎朝一時間みっちり掃除をするとか、年賀状を出すとか、電話をするとか、出張をするとか、
やりたくないことではなく、やってこなかったことを。
2023.8.24
(汚染水の)海洋放出が始まっちゃいましたね、とレジで不意に声をかけられる。
見覚えのない年上の女性の方だった。
インスタにこの件について憤りを覚えたので書き込んだのを見て下さっていた。
「私たちに出来ることは何だろうね」とため息をついて出ていった。
2023.8.20
本を買うこと以外の何かを期待されると困惑する。
2023.8.20
この気温の中、よく来てくれているなと思う。
この感じ、何かと似ているなと考えていたら、コロナの緊急事態宣言が出た時と同じだと思った。
あの時も、街の時間が止まったみたいになって、誰も歩いていなくても、本を求めにやって来る人がいた。自然と頭が下がる。
お互いにほとんど言葉を交わさなくても、「大変ですね」という気持ちを共有していたように思う。
「大変」なのはこれからも続くだろう。
結局のところ、政治や社会が安定しないと商売はどこまでいっても難しい。環境問題もそこと密接に繋がっている。
だから、一部の権力者や資本家の言いなりになってはいけない。
反抗のない文化活動、芸術活動、そして商売を僕は一才信じない。
2023.8.13
SNSの種類によって購買層が異なり、購入する本のジャンルも微妙に異なる。
実は少し使い分けて紹介している。それが正解なのかは分からない。
2023.8.8
昨日はiTohenさんへ阿部海太くんの新しい絵本『わたしはきめた』の原画展を観に行った。
この絵本は日本国憲法の前文を詩人の白井明大さんが詩訳し、それに海太くんが絵を描いたものだ。
一緒に観に行った長女は鳩の絵に興味を持って、夏休みの宿題である「平和ポスター」の参考にすると言っていた。
ところで、僕らがお店に着くと先にFOLKの吉村さんがいてアイスコーヒーを飲んでいた。
顔を合わせると当然お互いのお店の話になり、この夏もやはり厳しいですねという話になった。
翌日Twitter(そろそろXと書かねばならないのか)を眺めていたらFOLKさんのところでカレーを出している谷口カレーさんがこの夏は厳しすぎて、カレーの廃棄が続いており、メンタルが削られるのと勿体無いのとで、余ったカレーとご飯を無料で提供すると呟いていた。これは相当しんどいことだと思った。しかしそれと同時にしんどいのはうちだけじゃないんやなと後ろめたさの付いた安心感を覚え、どうしようもない自分に吐き気がした。
2023.8.2
このクソ暑い中ご来店下さる皆様には感謝しかない。本当にありがとうございます。
床に額を擦り付けています。
2023.7.29
あ、この人誰やっけ?どちらさんやっけ?と思いながらいらっしゃいませ、ありがとうございました、と言うてる時がある。だいたい帰られてから30分後ぐらいに思い出す。
2023.7.28
前職の友人が子どもを連れて突然来てくれた。
10年ぶりくらいの再会。
10年あれば色々ある。お互いにいつの間にか子どもが出来ていたり。
以前どこかで書いたかも知れないが店を作って良かったのは知人がこうして訪ねて来てくれること。
他の仕事だったらもう会えなかったかも知れない。電話とかLINEで連絡すればいいとか、そういうことじゃない。
そこに行けば会える場所があること。
2023.7.27
予約しなければ買えないものや行けない場所があることに不自由さを感じる。
何かに支配されているような気持ちになることがある。
そう感じながら、本の予約を受け付ける私は一体どういうつもりなのか。
2023.7.23
カップルで店に来ると大抵はどちらか一方が退屈している。退屈している方はスマホをずっと眺めている。
俺はなんでこんな人と付き合っているの?と聞きたくなる。一方に連れて来られただけだろうというのはもちろん承知している。
だから、稀にいる本に没頭しているカップルを見ると嬉しい。
別件だが店に入ってくるなり写真を撮っても良いですか?と聞くのはいかがなものか。というかどういうつもりなのか。
何をしに来たの?と聞きたくなる。
2023.7.23
朝イチで阿部海太くんが来店。iTohenで展示が始まった。
彼が岐阜に移ってからの再会となる。たまたま今日は次女が店にいて、彼女は海太くんが塩屋にいた頃、家族で遊びに行って会っているのだが、もちろん覚えていなかった。彼女がまだ2歳頃だろうか。
近況報告と来年の約束をして、彼は本と花を買って帰った。展示の最終日に見に行こうと思っている。
2023.7.22
スマホを眺めながら四、五冊ささっと買われるのと、一時間じっくり棚を見て文庫本を一冊買われるのとどちらが嬉しいか。
2023.7.20
佐内正史が店にやって来た。あの黄色いスカイラインに乗って。
僕に写真の世界を教えてくれた人。
20年以上見続けてきた人なので、流石に緊張した。LINEを交換した。
ナナロク社の村井さんと歌人の岡野さんにはお世話になりっぱなしだ。
2023.7.13
写真家は画集を買い、画家は写真集を買うのを散見される。興味深い。
2023.7.12
棚を見て時々本を手に取るが、全く目に写っていない、読んでいない、人が時々いる。彼らは大抵片手にスマホを持っている。
じっくり棚を端から端からまで見ていく人がいるが、全く本に触れない人がいる。
前者は暇つぶしだろうが、後者は最近気付いたのだが、同業者かも知れない。
どちらも気持ちの良いものではない。
2023.6.30
お店の道を挟んだ南側に小学校があり、そのまた南側に病院がある。お店の常連さんも知らない方が多いかも知れない。
駅から店の前を通って病院に向かう人を何人も何年も見ている。
病院から帰路につく人も。
午前中に年配の女性が数冊買って帰る際に、「ここはいつも面白い本置いてるね。通信販売もやってはるの?病院に通ってたんやけどね、死んでしもうて、ここまで来るのもう最後やねん。通販でも買えるんやったらまた見てみるわ」と言った。
「ああ、そうですか。それはそれは。やってますよ。どこから来はったんですか?」と誰が亡くなったのかは聞かずに私は答えた。何度か店に入ったことがあるようだったが私は顔を覚えていなかった。
「枚方から。電車でね。しばらく通ってたんよ。」
「そらちょっと遠いですね」私はショップカードを渡して、通販について説明し、お礼を言った。
病院や歯医者や眼科やお見舞いや何か個人的な都合で生活圏とは違う街に出て、そのついでに寄ってくれることは意外によくある。
彼女は誰を看取ったのか。どんな感情で本を選び、読むのか。彼女が立ち寄れる場所を作れたことを誇りたい。その小さな積み重ねが私と私の店を強くしてくれる。
2023.6.25
近所の焼肉屋の入口正面で、スマホで調べながら入店を躊躇っているカップルがいて、暗い気持ちになった。
せめて見えない場所でやるべきだろう。
2023.6.24
打ち上げが面倒だからイベントを開催するのに二の足を踏むということはある。
2023.6.23
ミシシッピさんの絵を買うために二日連続で来店された方がいた。
一日目に見て迷い、帰宅途中か帰宅後か眠る前に決断し、翌日の朝一でやって来た。
遠くの街から来たと言っていた。
一枚の絵を買うために彼女が過ごした約24時間を想う。
こういう時、店を開けて良かったと思う。
2023.6.22
朝から大雨。今日は車で通勤の日。どの道へ出ても混んでいた。
蜘蛛の子を散らすように家という家、影という影から車が街へ溢れ出す。
自分も蜘蛛になった気分で店へ向かった。
人は揺り籠から墓場まで影から影へ移動しているに過ぎない。
2023.6.21
本を買ってくれた若者が店の写真を撮ってもよいか?と聞いて来たのでどうぞと答えた。
店長さんの写真も撮ってよいか?と聞かれたがそれは嫌だと断った。
2023.6.18
タイトルを変更した。
気まぐれの投稿なので日記とは呼べないし、思考と創作の実験だからだ。
店に入ってすぐに出て行かれるともう出ていくの?となるし、手ぶらで長居されるとどういうつもりなの?と突っ込みたくなる。勝手なものだ。
2023.6.17
最近稀に「現金しかないですけどいいですか?」と聞かれることがある。
「現金がいいのです」
2023.6.13
十日ほど前に、長女のダンス教室へ迎えに行った後、二人で夕食を食べに行った。
千里中央の老舗の中華料理。
娘は天津飯を、僕は焼きそばを、そして唐揚げを二人で分けた。
ビールは我慢した。
それを今日を書くのは日記と言えるのか。
2023.6.12
スーパーに買い物へ行く途中を歩いていたら雀がうずくまるように死んでいた。
妻が魚の鍋が食べたいというので魚を見に行ったがいいものがなく、鱧にした。
今年最初で最後の鱧だろう。
2023.6.11
藤本徹さんの朗読会を開催するため広島READAN DEATへ。
昼過ぎにお店で藤本夫妻と合流。READAN DEATの清政さんも藤本夫妻も元気そうで何よりだった。
三人で一旦店を後にし、近所のお好み焼き屋へ。
お好みは大阪より広島の方が圧倒的に美味しい。違う食べ物という見方もあるけれど。
それから平和公園を散歩。お土産も買う。
戦争と平和について考え、ここで焼かれて死んだ人たちのことを想う。
夕方に店に戻って朗読会スタート。
大分から藤本さんのご両親、近所で仕事をしていた美術家の立花文穂も来てくれた。
本人は緊張していたようでいつもよりも早いスペースで読んでいた。
途中で間違った後、やり直しをしたのだが、その時が一番良かった。
藤本夫妻、清政夫妻、立花さんと僕で打ち上げに。
清政さんがriver cafeという店を予約していてくれた。
エスニックな料理でどれも美味しかったけれど、太刀魚の天ぷらのサラダが絶品だった。
僕は途中で抜けて皆んなに見送られタクシーで広島駅へ。
家に着いたのは0時半頃だった。蒸し暑い夜だった。
2023.5.28
お客さんがいる時はこんな小さな店にわざわざ足を運んでくれて本当にありがとうという気持ちになる。
誰も来ない時はああ何やってるんだ俺は、もうこんな商売やめてしまおう、何で誰も来ないのだ、と荒んだ気持ちになる。
振り子のように揺れる感情で毎日を過ごしている。その内糸が切れてどこかへ飛んでいってしまいそうだ。そうなると、どこまで転がっていくのか。それは元に戻ることが出来るのか。
2023.5.24
一日店に閉じこもっていると、世界は広いんだということを忘れがち。
普段意識しているかと言えばそういう訳でもないんだけど。
SNSに海外の動画や絶景なんかが流れてくるとわしはこんなところに座って何しとるんじゃいとなる。
ふと目を上げると書物が大量に棚に突っ込まれており、そこにもまた世界が広がっている。
もっと本を読みなさい。時間は限られている。
2023.5.5
GWは初めてのお客さんがたくさんいらっしゃって、今まで動かなかった本が売れていく。
嬉しい。
嬉しがっていたら能登地方で震度6の地震。
被害がないことを祈る。
地震の速報が流れる度に原発に異常は見られませんという速報。
これだけ地震の多い国で未だに原発が稼働され続けている異常。
異常な社会、異常な政治、異常な国。
2023.4.22
次女の誕生日。おめでとう。
高校の頃か、大学の頃か、先生と呼ばれる人たちが、
「卒業したら誰も助けてくれないよ」(だからしっかり勉強しなさい)と連呼していたのをたまに思い出す。
ある意味そうなのだろう。社会は冷たい。ところもある。
でも、そんな教育どうなんだろうね。
「助け合って生きないさい」と教えることは出来なかったのだろうか。
あの時の大人の言葉を思い出すたびに静かに怒りに震える自分がいる。
子どもたちがこれからいい先生に出会えたらいいなと思う。
坂本龍一が亡くなって、喪失感が日増しになって、しばらく何も書くことが出来なかった。
娘が生まれてきたことに感謝したい。
2023.3.15
お久しぶりのお客さんが買取の本を持って来てくださる。
大江健三郎、石川達三、中島らも、岡崎武志らの本を買い取る。
友人が鯛焼きを手に持ってやって来る。
お客さんが引いた時を見計らって頭から齧り付いた。
長女が11歳になった。
2023.3.10
今はもう存在しない書店の本棚やレコード屋の棚を思い出すことがある。
本やレコードではなく、それらが陳列されていた棚。それらを含むお店の匂い。
時々小さな自分の店をうろうろしている時、ふいに思い出す。
どこかで繋がっているのだろうか。
今日は驚くほど人が来なかった。
2023.3.9
朝から買取が続く。
春は買取の季節。
店の前の工事のせいか、春の陽気のせいか、視界がずっと白く煙っていた。
店もお掃除をしたい。
2023.3.2
常連さんと府知事選の話。
別の常連さんと豊中市の図書館が削減される話。
買い取った本に1968年の領収書。
2023.2.22
抱っこ紐のお母さんが来店。
それ自体は珍しくもないのだが、彼女は一時間ほど店に居た。
大抵の子連れの親は絵本の棚を見たり、あるいは目当ての本を探して10−15分ほどの滞在で店を後にする。
彼女は店の棚を隅から隅までじっくりと見ていた。抱っこされている子は眠るでもなく、泣くでもなく、ずっと揺られながら母親と同じように本を見ていた。
彼女はじっくり吟味して三冊の本を買っていた。
子どもが寝静まっている束の間、その本を読む時間が幸福であることを願ってやまない。
2023.2.19
トルコとシリアの地震にどう向き合えばいいのか分からない。
他人事ではないのに、自分事のように引き寄せて考えるのが難しい。
距離のせいなのか、考えることを拒否しているのか。
何をどう行動に移せば良いのか分からない。
地球全体が宙に浮かぶ脆い球体に思えて来て、不安が拭えない。
足元が覚束ない場所で息をしている。
2023.2.10
母の誕生日。七十になったらしい。
夕方におめでとうとLINEをしたがその日は返事がなく、翌朝にありがとうと届いた。
昨日はテニスに行ってきたと言う。整形外科に膝やら何やらを何度も診てもらいながらずっと続けている。
長生きして欲しいが母の家系は皆短命なので心配。
家系とか遺伝とかやっぱり関係あるのだろうか。
2023.2.8
昼間に小原晩さんがお土産のビールを持ってやってくる。
凄く美味しいんですよ、と聞いていたミッケラーの缶ビール。
夕方から京都へ向かう。
大切なお客様であり人生の大先輩と食事。西中島南方で阪急に乗り換え、大宮で待ち合わせ。
喧騒から離れ、予約をしてくれていた住宅街にある小料理屋へ向かう。
L字のカウンターと奥に小上がりがある小さな店。
金髪に安全ピンを耳に刺した若い料理人が一人で切り盛りしていた。
仕事のこと、子どもの結婚のこと、本のこと、音楽のことを語り合う。
生きていくこと、死んでしまうこと、についても話した。
苦労もしたけど今は楽しいと仰っていた。
白子の天ぷらが美味しかった。晴耕雨読という鹿児島の芋焼酎を呑んだ。
また行きましょうと握手をして別れた。
2023.2.8
お店をやっていて嬉しいことの一つは古い友人が訪ねて来てくれること。
10年ぶり、20年ぶり、なんてのも珍しくない。
SNSがなければそういうこともなかっただろうか。
2023.2.2
午前中に兵庫県立美術館へ李禹煥を観に行き、そのままお店を開けようかと思っていたが休みにする。
お店を開けてもうすぐ九年。今までは休むことが恐怖に近かったが今は休みたい時は休まないと危ないと思っている。
李禹煥を観て、それから万博方面に戻り、映画スラムダンクを観る。どちらも打ちのめされるほど素晴らしかった。スラムダンクは観ることを敬遠していたけれど、行ってよかった。
「余白」についてずっと考えている。
帰宅し即席の味噌ラーメンにバターを入れて食べる。夕食用に味噌汁と豚の生姜焼きを仕込む。
長女が学校から帰って来て、ダンス教室へ送る。(彼女は帰宅してから外出するまでの僅かな時間にスプラトゥーンをやっていた)
妻は4回目のワクチンを打ってきた。
みんな生姜焼きが美味しかったと言ってくれた。
タレに初めて蜂蜜を入れてみた。
2023.1.28
目覚めるとまた雪が積もっている。
それにしても都市部では雪が数cm積もっただけで慌ただしくなる。
電車は停まり、近所では車が滑って衝突している。
念の為車で出るのを避けて、妻は次女を保育園へ送って、それからモノレールで一足先に店へ。
僕はある程度の家事を済ませてから長女と家を出る。
雪が溶けて来ていたので迷ったが子どもが怪我をしては元も子もないと思い、モノレールで行くことにした。
長女は千里中央のダンス教室へ、僕はそれを見送ってそのまま店へ。
久しぶりのお花の日ということで朝から賑わう。
嬉しいのも束の間で、昼過ぎから首がもげるように痛くなる。
腰、背中、肩、首へと龍のように痛みが走り、それは首へ到達するとその日の夜までそこに留まった。
自宅に戻ると雪は跡形もなく溶けていたが、首の痛みは消えない。
次女が「ゆきやこんこ ゆきやこんこ」と繰り返し歌っているのを聴いて痛みが少し和らぐ。
それでもお酒を飲むのも我慢して早々に眠った。
2023.1.24
10年に一度の大寒波ということで、予報通り夕方から雪が降り始める。
冷え込んで来るに連れて客足が遠のく。客どころか誰も歩いていない。
ダンスの習い事をしている長女を迎えに行って、千里中央からモノレールで帰る。
地元の駅に降りると雪景色。
僕は大阪で育ったわけではないので雪が珍しいわけではないが、滅多に積もらない雪が積もって娘は目を丸くしながらはしゃいで帰る。雪の球を握りしめていた。
僕は「滑るよ、転ぶよ」とばかり言っていた。
はしゃいだ娘はニット帽をどこかで落としたことに帰宅後気付き、僕は帰ってきた道を辿るためにまた雪の中へ出た。
2023.1.21
paypayは使えませんかと立て続けに3回言われる。
paypayは使えない。
使えないんよ。
カードは一千円以上からお願いしています。
便利は搾取と同義だろうか。
2023.1.20
細野さんが幸宏さんについてコメントを発表した。
人生を一冊の本に喩えていた。
これだけの本に毎日囲まれいると幸福な時もあれば息苦しく思う時もある。
2023.1.17
28年前の朝はもちろん良く覚えている。15歳になったばかりだった。
僕は間接的にも直接的にも被災した。
いつかこの時のことを上手く書ければと思う。
あれから28年の年月が流れたことに信じ難い気持ちが滲み出してくる。
本のページを捲れば一瞬で時間が飛ぶが、そんなに容易い年月でもない。
28年、色んなことがあった。
2023.1.15
口にすると感情が溢れて涙が流れるように
文章にすることでも同じことがある。
自分は本当は悲しいのだ、と気づくことがる。
高橋幸宏さんが亡くなった。
2023.1.13
家族のために働く
自分のことなんてどうだっていい、そんな日がある。
そんな日が増えてきた。けれどそれを家族は喜ぶだろうか。
音楽家の寺尾紗穂さんが数年ぶりに来店。
近くに来たから寄って下さった。音楽も文章も精力的に活動しておられる。
見習わなくては。
2023.1.12
こんなにもたくさんの本が溢れているのにどうして世の中から戦争や暴力や差別は消えないのか
私たちはどこから来てどこへ行くのか
朝一で小原晩さんがエッセイ書きましたと持ってくる。
2023.1.8
言葉では表せないもの、というものは確かにあると思うが、そこに逃げてはいないか。
言葉と真剣に向き合っているだろうか。
僕は音楽家でも画家でもないのだから。
2023.1.6
新年の始まり。昨夜は少し緊張していたのか上手く眠れなかった。次女が眠りながら鼻を啜っていた。
眠気と緊張感の拭えぬまま店に着く。
掃除機をかけ、窓を拭くと少し汗ばむ。程よく身体も心もほぐれて行く。
豊田道倫さんから詩集が届いていた。
2022.04.21
「青葱を切る」という詩を初めて読んだ時、声が耳元で響きました。
「おれ」の声、「爺さん」の声、詩人の声が和音になって響きました。この詩集に収録されてる他の詩「春が、風が、吹いている」「海岸線叙景」「ミチルの夏」「遭遇」「白日」を読んでいる時も声が響きました。そういうことはあまりないことで驚き、そして同世代の詩人がこういうことを書くのかと出会えたことを嬉しく思いました。当店でもたくさんの方に手に取って頂きました。そして西淑さんの装画、清岡秀哉さんの装幀の良さも手伝ってすぐに売り切れたことを知り、名残惜しく思いました。まだまだこの詩集は売れると思っていましたし、まだまだ届けたい読者がいたからです。
このまま絶版にしておくのは勿体無いなと時折思い出しながら数年経って、第二詩集 『あまいへだたり』が発行されました。「イクラの味」を読んで圧倒され、ますますこの詩人に惚れ込むことになりました。五つの長編から成るこの詩集では声も言葉も更に研ぎ澄まされ、深くけれど柔らかく心に刻まれました。狩野岳朗さんの装画が見事に重なっていました。
朗読会を開き、交流を深め、それからしばらくしてこのまま指を咥えているわけには行かないと藤本さんに『青葱を切る』を当店から発行させて欲しいとお願いしました。すぐに快諾を頂いたのが2020年の春、コロナの広まる直前でした。発行まで2年以上かかったのは感染症は直接的には関係ありません。別の理由で延びることになりました。そしてまさか発売まで漕ぎ着けた先にロシアによるウクライナへの侵攻が始まるなど思いも寄りませんでした。「青葱を切る」は「爺さん」の体験した戦争だけが書かれているわけではありません。「青葱を切る」はこの詩集で唯一戦争がテーマになっていますが、他の詩には「孤独」「愛」「記憶」と文学が語り得る全てが描かれています。
広く永く読まれることを願っております。
2022.02.03
昨秋辺りからお客さんの顔ぶれが変わってきた。
週末になるといつもやって来る人が現れず、代わりに最近よく見るなという人が増えてきた。
その循環なくしてお店はやって行けないから悪いことではないと思うのだが、どこか心に穴の開いたような気持ちになる。
去って行った人はどこへ行ってしまったのか。
引越したのか、感染症の影響か、品揃えに満足出来なくなったのか、僕の言動が気に入らなかったのか、仕事や家庭環境の変化か。
恐らくどれも当てはまるのだろう。
そしてもちろん引き止めることは出来ないし、その術もない。
僕は子どもの頃何度か転校を繰り返し、いつも去る側だった。
いつからか新しい場所に着いても、新しい人に出会っても、その先に別れがあることを悟っていて、偶然線が交わってそしてまたすれ違っていくだけのこと、とあまり感傷的にならなくなった。ならないようにしていた。
この場所に永遠に留まることはないし、人間関係も時間や環境と共に変化して行く。
そして大人になった今も根本的な考えはあまり変わらない。
出会いがあれば別れがある。もう永遠に会えない人もいるのだろう。
ただ、僕は今の自分の生活を捧げている自分のこの店を愛している。
愛する場所から僕が感謝してもしきれない人々が去っていくのはやはり寂しいものだとしみじみ思う。
去る側だけでなく去られる側もつらいものだ。
川のように人生が流れていくと残り時間はどんどん少なくなって来るけれど、思い出や記憶は増えていく。きっと海はたくさんの記憶を蓄えているのだろう。
僕は過去に暮らした街や遊んだ友人や好きだった人のことを良く覚えている。時々都合よく心の穴を塞ぐように思い出す。
僕の店から去って行った人が本や写真を見たりしてそんな風に思い出してくれたら嬉しい。
わざわざ駅から歩いてやって来たり、車に乗ってやって来たりした日のことを。そこで手に取った本のことを。
そんな思い出に残る場所にしていきたい。
2022.01.01
1/6-16は年始恒例の古本SALE(店頭のみ)。
1000円以上のお買い上げで古本10%OFF
10000円以上のお買い上げで古本20%OFF
合計金額は新刊との組合せでも大丈夫です。
1/10(月・祝)は特別営業
2021.09.12
9/15-10/3 岩瀬ゆか『The light aren’t gone,they’re just out there. /光は残っていてただそこにある』
この展示の開催に合わせ、インタビューを試みました。今回の作品については彼岸から彼岸へ、春から秋へ流れていく物語があり、作品を提示する際に少し言葉を添えてみても良いのではないか、と考えたからです。岩瀬さんの言葉を反芻しながら少しでも作品の持つ奥行を感じ取って頂ければ幸いです。
作品集『Through』について
blackbird books(以下b):初めて会ったのはいつやったかな?本(作品集:Through)を持って来てくれた時かな?
岩瀬ゆか(以下i):いつやろ、本作った時は既に知り合いの気持ちやった気もする。。もうちょっと前かなぁ、kiteの展覧会??
知り合いが続々と関わっていってて、お店行ってみたいな、て思ってました。
b:5年くらい前やね。よく会ってる気がするけど、うちで展示をやるのは初めてです。Throughを手にとった時に凄くええ本やなと思ったのを割とはっきり覚えています。僕は実際の絵よりこの本で先に絵を見て、本屋の性格上かな、絵はもちろんやけど、本全体として凄く印象に残りました。今回もデザインで関わってくれている角谷さんの写真も良かった。このThroughは今もシリーズとして描いてますか?
i:点々のタッチで描いた木漏れ日のような絵がそうです。2012年あたりからずっと描いている。
b:Throughにはどういう意味が込められてますか?
i:通り過ぎる、通り抜けるという意味で、木の下を通り過ぎる時の、風や光や音、に加えて空間が迫って過ぎていく時のなんとも言い難い感じ、を平面で表したいと思ってます。
あと、なんでもないどこにでもある、誰もが見たことのある風景を描いているので、見た人それぞれの記憶や、この先への希望のような、内面の通り過ぎる事についても、何か刺激できたらな、と思っています。最近はさらに、生まれ生きて消えるまで、という意味?かな、お願いに近いんやけど、Throughのシリーズの絵を作る時はそのことが絵に現れますように、と思っています。
b:生まれて生きて消えるまで、っていうのは今回の作品に繋がってるよね?
i:Throughは、長く描いててだんだん変わっていってて。最初は「気持ち良さ」を追いかけて描いてたんだけど、生まれ生きて消えるまで、というのは最近になって出てくるようになった。意図的に描くのではなく、できた絵を見てそう感じる。だから続けて作って行ったらまた変わるかもしれない。今回の、箱作品を作るまでの一連の流れとThroughをずっと描いてきた流れが合流した感じで繋がっている。
b:この本の最後に、世界は美しいと言いたい、と書かれています。この想いは今も変わらない?
i:変わらないです。色々なやるせないような出来事とは別で、朝も昼も夜も、うつくしいな、と思うことがあります。都会暮らしですけど。
b:美しいっていう言葉をもう少し掘り下げると?
i:単純にきれいって思うこと。
朝の布団に入る光(ビルに反射して入る)とか、信号待ちしてる時に目に入る向かいの木の揺れとか、駅のプランターに植えられた派手な草花、夜の信号機、雨の日のアスファルト、高層ビルの光と影、高速道路、春に咲く小さい黄色い雑草、色々あるね。きれいやなっ!て思ったそのことを絵にしたい。
創作について
b:今回の作品の話に入る前に、少しだけ。絵はいつから描いてるの?
i:高校後に専門学校のイラストレーションへ。山本容子さんや、奈路道程さんが好きで線画を描いてました。そのあとバイトしながら人物画を描いていた。
今のスタイルになったのは産後、10年前くらいからやけど、合わせると18才から24年も絵を描いている〜!
b:出産でスタイルが大きく変わったということかな?
i:そうやね、時間が無くなったことで、描き方が即興的になって。あと、色々自分で動いてやってみることができるようになった。なんか、遠慮が無くなったというか。。
こだわりも無くなっていったな。いい意味で自分に緩くなっていった。多分育児経験で変わったんかな、と思います。
b:展示もかなり多いし、オーダー制作もしていると思うのですが、子育ての中でいつ描いてますか?創作は迷いなくどんどん進む感じ?描くのが楽しい?
i:平日の仕事(週2-3日デザインのバイトに行っている)休みの昼間と、夜間。一度子どもと一緒に9時頃寝て、11時くらいに起きて、2時か3時まで制作してる。創作は、ほとんど迷いなく進む。失敗か?と思ったら、置いて次に行く。描くのが楽しい。悲しいことや悔しいこと、日頃のモヤモヤも描いている時は全部忘れられる。描いた後に今日の取り組みを見ながら、いいねー、言うて呑むのが楽しみである。
『The lights aren’t gone, they’re just out there 光は残っていて、ただそこにある』 制作の始まりと絵について
b:今回のThe lights aren’t gone,they’re just out there.はThroughとは違って平面ではなく、アクリルのカケラを使って立体的であり、またそれを使ってキャンパスではなく紙にストレートに模様を描いています。
僕は先程お話を聞いたThroughに比べて、感情的な作品だと思いました。音楽も使っているし。(この箱作品には次松大助さんのCDが封入されています)
この作品を作った経緯や込めた想いを聞かせてください。
i:元々は、豆椿での展示(2020年3月春の彼岸:今回のblackbird booksでの展示は本人の希望で秋の彼岸に開催されます)がきっかけになっています。
豆椿の展示では、流れるように「消えゆくこと」がテーマになって、内容も母が亡くなる前に過ごした時間そのもので。
その3ヶ月後に母は亡くなったんですが、豆椿での展示は別場所で再展示ができそうだったり動き続けていて、何か形にしておきたいなぁ、と思ってました。
母の死に触れた時に、死とは生まれること、さらに言うと、生活そのものの同じ線状にあって、とても身近なものだと感じていた。見舞いに行って身体が薄くなっていく母との透明な時間を過ごした後、自宅に戻るとダイナミックに成長し続ける子らといつもと同じ熱い日常がある。そこには隔たりがなくて、とても身近だった。
病気の母にも子どもや私にも平常の日々があって、私たちは平常のもつ頑強さや逞しさに救われている、悲しみに寄りすぎないように、お腹空いたり眠ったりして生きることができるんやな、と思った。
そんで、亡くなってからもやっぱりその思いは変わらなくて。
死が悲しいのは残された人が勝手に思うことで、本人はそんなことない、どう思うかは全部残った者が勝手にやるだけやな、と。
死について、たいしたことじゃない、というか誰しもに起こる当たり前のことやな、と考えるようになって。
その上で、母が最後に意識もなくなり、身体が死のうとする時に、残りの野生が生きようと燃えていたことも思って。死にたい身体と生きる野生の闘いみたいなことで、それはやっぱり大変なことやと思った。どんな死にもあるんかな、と想像する。ちょっと話がずれてしまった。
とにかく、亡くなった後に、私に残されたこの印象を、形にしようと思って、箱を作りました。
死について、悲しいだけのことではなくて、忘れたり、都合よく思い出して悲しんでみたり、そういう毎日の平常を生きる上でのお守り、というか、そっとあるもの、なんじゃないかと考えて、それを現したいと思った。
なので、デザインと音楽にはなるべく悲しみに寄らないで、と伝えて、テキストも、あくまで自分の感想である、というスタンスで短く簡単に、と注意して作った。
b:ありがとう。お店にも色んな人生や生活が入ってくるから観る人がそれぞれに色々感じてくれたら嬉しいよね。
i:そう、色んな風に観てもらいたい。
b:この絵とアクリルについては?
i:普段は、手を動かして絵を描きながら出てくるテーマとか、場所が決まってから環境を取り入れて展示内容を考えたり、割と流動的に作るんやけど、この箱作品は珍しくカッチリとコンセプトが決まってます。
なので、唯一ゆらぎの余地があるのが描かれる絵についてで、絵は、たった今「現在」についてのことだと思い、最初100部作ったんやけど、全部仕上げずにその都度描く方法にした。
現実、現在はずっと続いていくもので、続くというのは、希望だなと考えている(考えたい)ので、光を感じさせるようなアクリル素材を選んだ。
絵にモチーフは特に無くて、その時々で、遊びや発見を大事に楽しい気持ちで描いている。
絵が一つ一つ違うことで、箱作品のテーマである死生観が個人的なものであること、現実の光とは、それぞれの様子があることにもつながります。この箱で示した死生観については、あくまでも私の個人的な出来事から今わたしが思うこと。または、それを投げて箱作品に協力してくれた方(音楽の次松さんや、豆椿、角谷くんもかな)の今の考えで、人によって色々な捉え方があったり、今後も生が続いて変化する。作品も、たまに思い出して眺めたりまたは忘れたりしながら、持ち主の折々にそっとあるものになるといいなと思う。
b:作品について説明というか言葉を加えてもらうのはインタビューとは言え、どうなんやろ、いいのかなと思っていました。ただこの作品については少し言葉を添えてみたらどうだろうと思い、聞いてみました。言葉にならなくても話を聞いてみたいなと。
i:ああ、いつもはあんまりしないけど、箱作品のは他の作品とは違うから説明がある方がいいよなーと思いながら、形にできてなくて。巡回展示の最後にインタビューしてもらえて良かったです。
もちろん、作品の背景とは関係なく見てもらうので全然かまわないんやけどね。
b:聞いといて良かった。大切な話をありがとう。この箱作品の展示は今回が一応終着駅です。これを読んでくれている方や既に別の会場で観ている方、これから観に来てくださる方に最後に一言。
i:この作品は私の個人的な出来事がきっかけになっていますが、そことは関係なく見た人の素直な感想で楽しんでもらえたらうれしいです。
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