本とわたしを離さないで

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2017.04.05

blackbirdからの手紙 2 2017.4.5

春です。

保育所での最後の一年が始まりましたね。

この前入園したばかりだと思っていたのに。

一年は僕にとってあっという間ですが、あなたにとって一年どころか一日はとても長い冒険のように感じられるのではないでしょうか。

家に帰って、今日は何があったと聞くのがとても楽しみです。

たとえそれがほんの些細なことでもあなたにとっては冒険の一部であり、一大事と思われることなので釣られて僕も興奮します。

最近はひざを擦りむいて血が出た、という話をよく聞きます。

興奮しながらズボンの裾を捲くりあげて絆創膏の付いた膝をどうだ、と言わんばかりに見せつけられています。

 

マンションの前にある大きな公園のモノレール側の土手にユキヤナギが咲いています。

いく本もの枝に白い小さな花が無数に付いているものです。

この家に越してきてすぐの春にこの花を見つけたので、この白い花が僕にとって春の合図です。

夜にも白く浮かび上がるのがとても綺麗です。

ユキヤナギを表紙にしたとてもこじんまりした植物図鑑があります。

花や木、植物の名前を知っていると毎日が少しだけ楽しくなります。

一度その名前、姿、形を覚えると例えば散歩道、通学路、バスからの風景の中で、あ、あそこにもここにも咲いていると気付きます。

それはきっと楽しいことです。

本は、人生を楽しむための一つの道具です。

だから本はいつでも買ってあげますよ。

お菓子は出来るだけ我慢してください。

92257360

 

 

 

2017.03.19

blackbirdからの手紙 1 2017.3.17

5歳の誕生日おめでとう。

僕は驚いています。

自転車を漕いでいるあなたの姿に。

ワンピースの背中のファスナーを閉めて欲しいというあなたの姿に。

(そしてファスナーを閉めている自分の姿に)

あなたの髪のリンス(リンス!)を洗い流していると「サラサラ取れちゃうから流しすぎないで!」と言うあなたの姿に。

(そしてリンスを洗い流している自分の姿に)

 

誕生日にお母さんが作ってくれたコロッケとても美味しかったね。

作り方をその内教えてもらってください。美味しいコロッケを作れるというのはいつか必ず誰かを幸せにすると思います。

誕生日に送った「生きる」という絵本、厳密に言えばそこに書かれている詩はとても大切なことが書かれていると僕は思っています。

いつかあなたにとって大切な人が出来たとき(それは一人とは限りません)、その言葉はあなたを支えてくれると思います。

絵本を読まなくなっていつか忘れてしまってもいつかふと思い出してくれれば良いです。

ikiruehon

2017.03.01

本と映画と痛み

紙を扱う仕事をしているので、手を切ることがある。

ページをめくるとき、ポスター、フライヤーを手に取るとき、段ボールから本を取り出すとき、しまうとき。

スッと切れて気づくときもあれば、帰宅後風呂に入ってヒリッとして気づくこともある。

これは肉体的な痛みだ。

 

本を読んでいるとき、あるいは映画を観ているとき、痛みを伴うことがある。

ここから先はもう読めない、この場面はもう観られない、そう思いながら目を逸らすことが出来ない。

場合によっては過去の出来事や現在抱えている悩みを思い起こさせ、胸が締め付けられることがある。

そこでは少なからず精神的な苦痛を伴う。

それでも人は本を読むことを止められないし、画面から目を逸らすことが出来ない。

何故だろう。

 

宮崎駿の映画は繰り返しTVで放映される。多くの人があらすじを知っていても、もう一度見たい、と思わせる何かがあるのだろう。

主人公たちが家族や恋人を失い、血を流し、自然が破壊され、爆弾を落とされようとも、また生きていくことを僕たちは知っている。

映画を観ている僕たちは登場人物たちの痛みと希望を心のどこかで共有している。

作者が大変な苦痛を伴いながら創り上げていることを僕たちは想像出来る。

 

身体的な痛みは共有出来ないが、心の痛みは同じ形ではなくともどこかで繋がることがある。

本(芸術)はその繋がりを開くキーでありツールだ。

本を開き、その扉の向こうがどうなっているのかは分からない。暗闇を手探りで進むことになるかも知れない。

けれど本を開かなければ分からないことは確実にある。

 

少し前に4歳の娘を連れて映画を観に行った。

子どもが両親を探しに旅へ出る話だったけれど、娘はその主人公の苦労あるいは悲しみに耐えられず途中で泣き出して映画館を飛び出してしまった。

アニメとは言えまだ早かったのかと思った。一方で感受性が鋭く、一点の曇りもないことに感動した。目を逸らさずに最後まで見よう、とは言えなかった。

ある時期からか、僕は多くの物事から目を逸らして来たのかも知れない。成長していなかったのかも知れない。

それを認めることは苦痛だった。

 

 

 

 

 

 

2017.02.15

『PERSPECTIVE from an oblique』創刊記念イベント「老いの現在を知るために」を終えて

ある雑誌で読んだ「真実は一つだ。全ては繋がっている。」というスティーヴィー・ワンダーの言葉が好きだ。

真実とは何だろう。

 

本誌は「老いにまつわる人、物、事などをセレクトした情報誌」と謳っている。

介護保険制度の目的である「自立支援」を取り上げるため、何よりも介護の現在を伝えるため、

著者の主観に捕らわれず、斜めの視点から老いを捉えている。

当然介護保険制度の成り立ちや、介護の現在について説明するには過去を振り返らなければならないので、

この創刊号では大和物語の「姨捨」にまで遡り、そこから現在までの老いの歴史、情報を集めている。

ページを開いて読んでいくと浮かび上がるのはここに書かれているのはこの国の成り立ち、家族の物語だということ。

夫婦がいて、父母がいて、子がいる。人が居るところには食べ物があり、社会が生まれ、お金が流れ、政治がある。

老いを語るときこれらの事を避けて通ることは出来ない。

全ては繋がっている。

その事に改めて気づかせてくれる。

そしてどうすれば人間らしく生きられるのか、人間らしく死ぬことが出来るのかを考える時、言葉が生まれ、文学が生まれ、哲学が生まれる。

そもそも老いるとはどういうことなのか?自立とは何なのか?家族とは?夫婦とは?親子とは?

「姨捨」の物語では母を山へ捨てた男は翌日後悔し、再び山から母を連れ戻す。

「楢山節考」では母は自ら山へ入っていく。

「恍惚の人」では社会への疑問が叩きつけられる。

そこにはいつも真実が見え隠れしている。

『PERSPECTIVE』にもちろん答えが書いてあるわけではない。

けれど、その答えを探し続けなければいけない、ということを読後強烈に掻き立てられる。

トークイベントではその問への道のりを言語化する大変な作業があったと思う。

その真剣さが店中に広がりとても濃密な三日間を過ごした。

 

トークイベントで著者の川那辺さんが「どうして本にしようと思ったのですか」と参加者の方に質問を投げかけられた。

僕は川那辺さんが言葉を伝えたかったからだと思っている。

「斜めからの視点」とタイトルにするぐらいだから主観は極力避けているけれど、中から溢れるものがなければ一年かけて本を創ることは出来ないだろう。

ご覧のようにこの本の表紙は絵が全面に描かれ、タイトルも英語で一見何の本か分からない。

「しっかりデザインを作ったのは邪魔をしたくなかった。いつもふとした時にパラパラめくって欲しいから。本は残るものだし、いつも側に置いておけるものを作りたかった」と仰っていたのが印象的だった。

 

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2017.02.08

煙草と母 古本暮らし/荻原魚雷

荻原魚雷さんの「古本暮らし」という本(晶文社)を読んでいたら「煙草のない生活なんて」というエッセイに出会った。

荻原さんは一日にキャスターを一箱吸う。ある作家が一日に十箱吸うと聞いて驚いている。

著者は幾らなんでも吸い過ぎだと思うけれど、こう言う。

「煙草の有害性については、もう耳にタコが出来るくらい聞かされている。それなのに、やめられない」

喫煙マナーが下がっていることや飲み屋で吸い方がなっていないと怒られたりしたエピソードを交えながら、こう語る。

「今は煙草を吸うこと自体が悪癖とされているので、ドラマの登場人物もあまり吸わない。漫画やドラマの中で登場人物が煙草を吸うシーンがあると、必ずクレームがつく」

「一体、煙草もおちおち吸えなくなって、それがよい世の中といえるだろうか」

「まあ愛煙家の自己弁護は、たいていは屁理屈である。しかしさらに屁理屈をいわせてもらえば、屁理屈をいっさい許容しない世の中はつらいなあとおもう」

結局、仕事がいちばんからだにわるいんじゃないか、とオチがつく。

 

僕は煙草を吸わない。それでも喫煙所を探し回って、せせこましく吸っている人たちを見ていると気の毒だなと思うことがある。

喫煙者を必要以上に追い込む風潮には僕も反対だ。

 

僕は煙草を吸わないけれど、吸っている友人は多い。

中学からまわりは吸っていたし、学生の頃は一人暮らしをしていて、麻雀仲間が煙草を吸っていたから部屋中モクモクになっていた。(徹夜明けその部屋で眠るのがつらかった。今度会ったら怒ろう)

ある友人は「こんな身体に悪いモン、何で吸ってええんやろな」と言いながらバカバカ吸っていた。

仕事先では先輩たちと飲むことが多かったけれど吸っていない人の方が少なかった。(輪になって一服しながら仕事の相談などをしていて、その輪に入れないことが歯痒かった)

 

そして、母親が吸っていた。父親に隠れて。

子どもの頃、学校から帰ったときの夕方や三人(僕と妹と母)で食事を終えたあとの父が帰るまでの間に台所の換気扇の下に立ち、片手を腰にあて、とても美味しそうに吸っていたのを覚えている。

父は煙草が嫌いだったので(祖父がヘビースモーカーだった影響らしい)、時々母の煙草を見つけては喧嘩になって、それはたまらなく嫌だった。

今も吸っているかは知らない。でも、あの時の姿勢のままに美味しそうに吸っていたら身体に悪いからやめろ、とはとても言えないと思う。

小学生の時に一度隠れて母の煙草を吸ったことがある。マイルドセブンだった。

何故か僕はそのことをわざわざ母に報告した。

「ごめん、隠れて吸っちゃった。でもあんまり美味しくないね」とか何とか。

その時の母のバツの悪そうな顔を覚えている。

FURUHONNGURASHI