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2012.09.14ブログ
堀江敏幸の初期の作品に「ボトルシップを燃やす」という作品があります。
少年の私が高台にある三階建の廃墟に友人Nと忍び込むという話です。今は廃墟となってしまったその建物の三階バルコニーで大きく風を孕んだシーツ。そのバルコニーへどうしても行きたかった私はNの誘いに乗ります。かつては喫茶店だったその建物の中で見つけた大量のマッチ箱とボトルシップ。私はこの綺麗なボトルシップを持ち帰ろうかと思案します。物語はシベリア極東の猟師の物語アルセニエフ「デルス・ウザーラ」とリンクしていきます。
軍事調査と地理測量に果てしなく広がるタイガを訪れたアルセニエフとその道案内を請け負ったデルス。二人の友情とやがて訪れるデルスの死。私は廃墟でのNとの短い共同作業と彼の死を思い浮かべる。
ぼくが心を惹かれたのはその共同作業、廃墟での出来事です。地下の車庫へ大量のマッチ箱を持ち込んだNは中身をばらまいてマッチの先端を重ね合わせ砦を築いていく。手伝ってくれと私は言われ、二人は黙々と貝塚を作り上げていく。やがてNが火を放ち暗闇のなかでマッチの火が燃え上がる。炎が下火になるとNは階上からボトルシップを運び込み、今度はこれを燃やそうと言う。
「燃やすってなにを?」
「船さ、船を燃やすんだ」
暗闇で火をつける、という行為にぼくは心惹かれるようです。太古の昔からある暗闇と火。果てしなく想像が広がります。暗闇自体、境界のないものだからでしょうか。火を崇める宗教も少なくないようですが、なんとなくわかる気もします。ゆらゆらと不安定に揺らめく炎。アルセニエフとデルスが見ていた果てしなく広がる森林と野営の火。「ボトルシップを燃やす」は短編ですがまるで長編小説のような広がりと奥深さをぼくには想像させました。この話は終わりなく、暗闇の中をどこまでも海のように広がっているのではないか。
燃やす、という事では同じく村上春樹の「アイロンのある風景」という短編を思い浮かべます。こちらは誰もいない冬の海岸で老人と女が焚き火を燃やす物語です。ここでもジャック・ロンドンの小説が重要な要素として出てきます。そして二人は死について語る。海岸で焚き火を燃やすただそれだけの話しですが、暗闇と海というものが物語りに深みを与える。
暗闇で火を灯すという行為は人間にとって何かとても重要なことではないか、今そんなことさえ思いました。
誰もいない網走の海岸で友人と焚き火をしたことがあったけれど、あれは確かに忘れられない思い出です。
2012.08.22ブログ
村上春樹の「サラダ好きのライオン」を読んでいると久々にこの文句に出会ったので、カポーティを読み直した。僕はカポーティが大好きなんです(ただ、ティファニーで朝食を、だけは良く分からない。その内分かる日が来るんだろうか)。その文句とはこちらです。
「何も考えまい。ただ風のことだけを考えていよう。」 有名ですね。恐らく。村上春樹氏もこの文句からデビュー作「風の歌を聴け」というタイトルを頂いたと述べられている。
この文句は「最後の扉を閉めて」という短編の最後のセンテンスになっている。改めて読んでみると、本当に孤独な小説だ。もう孤独な人を究極に追い詰めている。世界中の人々に愛されるように文章はため息が出るほど本当に美しいけれど、こんなにたくさんの孤独を書く作家は恐らく他にいない。その孤独には夜のように深い闇の孤独があり、氷のような冷たい孤独がある。この人の物語を読んでいると実際に孤独という物体に触れているような気がしてくる。
20代の時に出会って良かった。10代で読んでいたら窒息していたかも知れないと今更思ってしまった。
でも今は、孤独な話だなあと思いながらも、その文章の美しさに心を奪われてしまう。何故だろう。家族を持って孤独に興味を失ったからかも知れない。今、孤独を書き切る作家はあまりいないのではないでしょうか。どうなんだろう。愛や孤独は語りつくされた気がする。そんな事を思いながら、書きながら、孤独ってなんだ、とまた思考がぐらぐらと揺れている。
この「夜の樹」という短編集はタイトル作品はもちろんの事、「ミリアム」「誕生日の子供たち」など有名な素晴らしい作品が収められていてお勧めです。眠る前に読むと寂しい気持ちになれます。
2012.06.18ブログ
何度も読み返している小説の一つに芥川龍之介の「蜜柑」があります。
とりわけ、この素晴らしい「ちくま日本文学全集」の芥川龍之介を心斎橋の古本屋さんで買ってからは何度も読みました。
短いけれど、日常に誰もが感じた事のある疲れ、気付き、喜びを分かり易く書いたものです。
二十歳を過ぎた頃、難しいことを考える事はない、こういった小説を書きたい、書けばいいのだ、と僕は思ったのです。今も思うことがあります。
日常をこの蜜柑の様に一瞬でも暖かく彩ってくれる小説を届けたい、と。
最後のセンテンスが好きです。
「私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである」
帰宅途中や、眠る前に、この小説の風景を思い浮かべます。少女の手を離れ、汽車の窓から子供たちの頭上へばらばらとこぼれ落ちていく日の色に染まった蜜柑を。
そして少し暖かい気持ちになります。
小説が僕の身体に血となって流れているのを感じます。
だから、本を読むことは辞められません。
2012.05.11ブログ
大好きな小説家カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」を読み返してみました。
本当に不思議な小説です。ふと突然にあの物語は何の話だったのだろうと考える事があります。恐らく頭の中に「わからない」がずっと残っているんですね。こういった小説は何度も読み返してみたくなるもの。僕が好きになる小説の要因の一つだと思います。
初めて読んだとき、およそ1/3を読むまで一体これは何の話をしているのか、ここに出てくる人々は何者なのか、想像力を働かせながら読みました。読書をする時間が代えがたく貴重な時間に思えました。
「記憶」が小説を書く際の最大のモチーフだとNHKのドキュメンタリー(確かNHK)でイシグロさんは語っていました。実際イシグロさんの小説ほとんど全ては過去を回想する形で綴られています。「わたしたちが孤児だったころ」では「あれは何年前だった」など過去を追想する場面が頻繁に出てきます。時系列を追えなくなるほどに。混乱を多少覚えながらも物語の世界にぐいぐいと引っ張り込んでいくその力に僕は魅了されました。
そしてこの「わたしを離さないで」は現実とは全く世界の住人が現実とは全く切り離された世界について語っているように思えるのですが、最終的には僕が息をしている世界と何ら変わりのないことに気付かされ、悲しみに近いものを覚えました。
私達が「記憶」を元に生きていることは間違いないのですが、それは悲しいことなのか、優しいことなのか、暖かいことなのか、考えさせてくれます。それをこういった驚くような設定でかつ静かに語られる文体に繰り返し僕は魅了されます。読書の喜びそのものです。
ちなみにハヤカワepi文庫から出ている文庫は2冊買ってしまいました。4刷までが松尾たいこさんのイラストで5刷から民野宏之さんのイラストのようです。恐らく、映画化の関係でしょうか。その映画、まだ見ていないんですよね、うーん、見たい。
2012.02.29ブログ
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