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2016.08.31ブログ
実家の縁側に座り西瓜を食べていたのはいつだったか。
西瓜の種はどこまで飛んだのだろう。
父や母と何を話していただろう。祖父はどこにいたのか。祖母は座って笑っていたに違いない。
西瓜ほど夏の思い出を喚起させる果物はないだろう。甘い水分が口の中に広がるとたちまち子どもの頃を思い出す。
原民喜の「幼年画」はそんな誰もが持つ子どもの頃の記憶を、子どもの目線とこの上なく美しい日本語で描いた傑作だ。
記憶の中の小さな声、会話、風景が物語となって目の前に広がる。何事にも代え難い読書の喜びがここにある。
夏祭り、川遊び、鯉、祖母のご飯、兄弟や親戚との遊び、父と二人で汽車に乗ったこと、海、花火、小学校。
舞台は様々だが著者の記憶は読者の記憶と見えないところで結びつき、たちまちあの縁側でスイカを食べていた頃を思い出させてくれる。
昨年の夏、この短編小説集と作家に出会えたことに僕は喜んだ。
「幼年画」は初版とその初版が完売した後、新版として装幀を一新したものと表紙が2種類ある。
表紙の絵、題字は共に広島在住の画家nakabanによるもので、コップが描かれている。
先日そのnakabanの個展が池田の小さな山の麓にある古民家を再利用したギャラリー「Fältフェルト」であり、大雨の中家族を連れて観に行った。
旅と記憶を主体とした幾つかの絵の中にまた新しく展示のために書き下ろされていたコップの絵があった。
「コップの中の風景」とある。
「幼年画」の初版の絵(題は「帰路」)と同じようにコップの中に町が描かれている。
これから「幼年画」を読み返すたびにこの絵に触れることになる。
このコップの中の町は原民喜が見た風景でありnakabanが見た風景であり僕が見た風景だ。
僕たちはコップの中の風景を、町を、記憶の中を、彷徨っている。
2016.06.19お知らせ
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2014.10.15ブログ
リチャード・バックは飛行機が本当に好きだった。飛行機を見ると頬ずりしてしまうほどだった。退屈な東京でのプロモーションから名古屋の小牧飛行場へ立ち寄ったとき、リチャード・バックは狂喜した。それは感動的な光景だったとあとがきに村上龍は書いている。十数年ぶりに肉親に会ったかのように振る舞っていたと。
僕にとっての飛行機は何だろう。20代のころはそれが見つからなかった。ああ、ダメだ、何て寂くて情けない人生なんだ、と思った。
作中で救世主であるドンが叫ぶ。「イリュージョンだ、この世の全てはイリュージョンだ、何から何まで光と影が組織されて、像を結んでいるだけなんだ、わかるかい?」 これはもちろんこの世の全ては幻だ、まやかしだ、壊してしまえ、と叫んでいるのはなくて(10代の僕が読んだらそう取ったと思う)、何も怖がることはないんだ、好きなことをしていいんだよ、と言っている。自由を謳い、好きなように振る舞うとどこからかこの小説のように反発してくる人々が現れる。この小説の舞台である1977年のアメリカでも。現代では人々と違うものの見方をすると袋叩きだ。
リチャード・バックも言っているように好きなことを見つけること、追求することは大変だと言っている。ドアを叩き続けるしか無いと言っている。発表から40年近くたった今もその言葉は生きている。ドアを叩き続ける、というのはフィジカルな行為で、自由や理想を空想することや、ネットで呟くことではない。行動し、飛行機に乗り、飛行機に触れなければ分からない。
どんな小さなことでも好きなことを追求している人は幸せだ。そんな人がたくさんいればが幸せな社会だ。周りの雑音なんて聞こえない、聞く暇もない、聞こえてこない。
好きなことだけをして生きてやる、この本を読むたびにそう思って、すぐに本を閉じる。そして少しの勇気を貰って、混沌とした世界のドアを叩いていく。
2014.09.13ブログ
著者、そしてこの短編集についての詳細は巻末にこの本を編んだ岡崎武志さんが書かれているのでそちらを読んで下さい。
ここには岡崎さんと夏葉社の島田さんとで庄野家を訪れるエピソードがあるのですが、島田さんがご来店頂いた時にその時の事を自慢されてしまいました。。
それはそれとしてここには岡崎さんが庄野作品を愛するきっかけとなった「山茶花」(さざんか)という作品について触れられています。「親子の時間」の最初に収められている短編です。
岡崎さんにとってこの作品がいかに大切なものであるのかが分かる、簡潔ながらも愛に溢れた文章です。この作品は「夕べの雲」という作品にも収められていて、私も過去に読んでいました。私も大好きな作品です。しかしもう一度読んでみると過去には分からなかった面に気付きました。分からなかったというよりも、感じることの出来なかったことに。
垣根の山茶花の花が咲いたころ、語り手の彼は夢を見ます。亡くなった父を支えるように二人で立ち、「大丈夫?」と聞くのです。夢からさめた後も父の背中や腕に触れた感覚が残っている。その翌日、彼は午前から昼までの時間を長男と二人で過ごす。その時はたと気が付くのです。あの「大丈夫?」という言葉は長男がよく口にする言葉であることに。 この長男が「大丈夫?」と言う時や彼の父と息子についての考察についてはもちろんもっと細かく描写されているのですが、この子どもの口癖が自分に移ってしまう感覚、ふと現れる自分の親、自分、子どもはやはり似ているのだな、という畏敬のようなもの、それは私に子どもが出来ていない時には決してわからないものでした。
本を読むということは決して新しい知識を獲得するためだけではなく、気が付かなかったこと、忘れてしまった大事なことを教えてくれる時間です。
「親子の時間」というのも恐らくそういった代え難い貴重な時間なのでしょう。
親子の時間
2013.12.23ブログ
「遠い日、僕たちは幼く、弱く、そして悪意というものを知らなかった」
以前にも書いたかも知れないけれどカポーティを語る上で欠かせないキーワードに「イノセンス」という言葉がある。
誰にでもある幼少期の美しい記憶、外的世界から身を守るために作り上げた小さな世界、ある場合には仲間になる動物や老人。
多くの人々は成長するに従って、そういった記憶や思いや忘れていくものだが、カポーティは成長したあとでもその思いを忘れなかった、そういう意味ではカポーティは成長しなかった、とこの本を訳した村上春樹は書いている。大雑把に言うとそういうことをあとがきで書いている。
毎年クリスマスが来ると、主人公の7つの少年、そして遠戚のおばあちゃんと彼女の飼っている犬は大忙し。フルーツケーキを焼いて、ツリーを準備して、お互いのプレゼントを用意して。
悪意のない完璧な物語が美しい文章で語られる。また、挿絵にもなっている山本容子さんの素敵な銅版画がこの本の魅力の一つにもなっている。手に取るだけで、ああ、美しい本だな、と言える本はやっぱりある。
こういった物語が世界中で読まれていることは微笑ましいことだと思うし、文学というか芸術の持つ素晴らしい一面だと思う。
そしてクリスマスという多くの人が微笑むこの日には本当に不思議な力があるのだな、と毎年考えたりする。
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