本とわたしを離さないで

2018.01.16ブログ

「死む」

以下は、お客様のご依頼で医療業界のある雑誌に寄稿させて頂いたものです。

いつもより少し長文になりますが宜しければ。転載は了承を得ております。

「死む」

 5歳の娘が先日突然「お母さん、私大人になりたくない」と神妙な面持ちで口にした。妻も、そして横で聞いていた私も驚いた。口を揃えて「どしたん、急に」と訊ねた。

 3歳を超えたあたりから語彙が増えてきて連日新しい言葉を使っては私たちを驚かせてくれる。どこでそんな言葉を覚えてくるのだろう?ということも多々あって、私たち夫婦の会話や保育所や公園やスーパー、病院などで周りの人間をよほど観察しているのだろうと想像出来る。言葉を覚えてくると質問が増えてくる。「どうして海はしょっぱいのか?」「どうして雷は光るのか?」「アメリカとはどこにあるのか?」「奇妙とはどういう意味か?」大人でも容易には答えられない質問を次々と飛ばしてくる。そんな質問をしてくる娘を見ていると困るわけではなく、嬉しくなる。日々成長しているのだなあと。

 恐らくそこで行き着く疑問の先は「生とは何か?」「死とは何か?」ということになるのだろう。芸術家たちはこの困難な疑問に立ち向かう人々だが子どもの頃の疑問を捨てずにいられたからこそ芸術家になれるのかも知れない。日々過ごすうちにそんな疑問には構っていられなくなる。だから、生や死について疑問に思うことは子どもだけが持ち得る純粋さを伴っている。

 「だって私が大人になったらお母さんはおばあちゃんになって死むんやろう?そしたら会えなくなっちゃうやん。それは悲しいもん」と娘は答えた。娘は「死ぬ」と発音出来ずに「死む」と言う。バッタが死む、メダカが死む。しかし母親が死ぬことを想像しているのを見るのも聞くのも初めてだった。死は恐らくどんな言葉よりも輪郭が掴みにくいものだが(大人の私でさえ)、「会えなくなる」ということは分かりつつあるらしい。娘は死を恐れているのではなく、母親に会えなくなることを悲しんでいる。悲しんでいる娘を見るのはつらい。妻は「大人になっても会えるよ。大人になったら楽しいことたくさんあるよ」と答えた。私もそれに加勢するように同じように答えた。

 私は親バカと言われようが何だろうが娘が死の悲しみに耐えられるのか不安で仕方がない。可愛がってくれている祖父母や、そして私たち夫婦がいつ何時命を落としてしまうかは誰にも分からない。その時の娘の悲しみを想像すると正常ではいられなくなる。娘にはいつまでも可愛い娘でいてもらいたいが、悲しみに耐えうる強さも身につけて欲しい。それが大人になるということなら仕方ない。一緒に頑張って大人になろう、と言うしかない。幸い心を鍛えてくれる書物ならここにたくさんある。