本とわたしを離さないで

2017.10.12ブログ

長崎平和公園にて

長崎平和公園へ家族三人で訪れた。

ひどく雨の降った日の翌日、灰色の雲はまだ空を覆っていて、青い空が点々と見えてその出番を待っていた。

気持ちの良い気候だった。

朝早くにホテルを出て、路面電車に乗り、小さな駅で降り、信号を渡るとすぐに入口があって、丁度小学生の団体がぞろぞろと出てくるところだった。

子供らは黄色い帽子を被っていた。5歳の娘は興味深そうにその団体を見つめていた。

階段と併設されたエスカレーターを登ると公園が広がっていて正面に「平和の泉」と呼ばれる噴水があった。

噴水の前には「ある少女の手記」を刻んだ石碑が置かれていた。

人はまばらで水の音以外にはほとんど何も聞こえなかった。

僕は石碑を読み、水の音をずっと聴いていた。

とても静かだった。

平和の泉を通り過ぎると公園は更に広がり、遠く正面には写真でしか見たことのなかった巨大な像が立っていた。

平和祈念像と呼ばれる水色の像だ。

数人の外国の観光客がその像の前に立っていた。他にほとんど人はなく、公園の端で老人がアイスクリームを売っていた。

僕は空を眺めたり、像を見たり、公園を囲む木々を見たり、歩く娘を見たり、写真を撮る観光客を見たりしながら像の前へ歩いて行った。

像の指差す空を眺めた。とても静かだった。雲がとてもゆっくりと流れていた。

その雲の流れる音が聞こえるくらい静かだった。

たった72年前にここから数メートル離れた爆心地の上空で爆弾が爆発したことなんて信じられないくらい静かだった。

僕はずっと耳を澄ませていた。

何か大切なことが聴こえるのではないかと。何か大事なことを聞き逃しているのではないかと。

 

耳を澄ませることはとても大切なことだ。

見ることよりも遥かに大事だと思う。

ヘミングウェイは聞くことが好きだと言った。人々は見ることに必死だけれど何も聞いていないと言った。

物語を読むとき、ただ文字を追うのではなく、人は耳を澄ましている。

その場面の中で。その風景の中で。遠い異国の、あるいは遠い記憶の声を探すように。

絵や写真を見るとき、人は耳を澄ましている。どこからか音や声が聞こえてくるのではと。

 

色々と困難な時代だけれど、小さな声や音を聞いている人に僕は惹かれる。